1972年5月15日に開かれた、日本政府主催沖縄復帰記念式典で、屋良朝苗沖縄県知事のあいさつからは、復帰に対する当時の沖縄県民の複雑な心境が感じ取れます。
沖縄復帰記念式典における「沖縄県知事あいさつ」〔全文〕
(「沖縄復帰記念式典記録 昭和47年12月1日」内閣総理大臣官房 所収)
沖縄百万県民の長年にわたる祖国復帰の願望が遂に実現し、本日ここに内閣主催による沖縄復帰記念式典が挙行されるにあたり、沖縄県民を代表してごあいさつ申し上げることができますことを生涯の光栄に思います。
私は、いま、沖縄がこれまで歩んできた歴史の一齣一齣をひもとき、殊に終戦以来復帰をひたすらに願い、これが必ず実現することを信じ、そしてそのことを大前提としてその路線に沿う基礎布石、基盤づくりに専念してきた者として県民とともにいい知れぬ感激とひとしおの感慨を覚えるものであります。
私は、復帰への鉄石の厚い壁を乗り越え、けわしい山をよじ登り、茨の障害をふみ分けて遂に復帰に辿りついてここに至った県民の終始変わらぬ熱願、主張、運動、そこから引き出された全国民の世論の盛り上がり、これにこたえた佐藤総理大臣をはじめ関係ご当局のご熱意とご努力、さらには米国政府のご理解などを顧みて深く敬意を表し、心から感謝を申し上げるものであります。
それと同時に、きょうの日を迎えるにあたり、たとえ国土防衛のためとはいえ、さる大戦で尊い生命を散らした多くの戦没者の方々のことに思いを馳せるとき、ただただ心が痛むばかりであります。
ここに、謹んで沖縄の祖国復帰が実現いたしましたことをみ霊にご報告申しあげますとともに、私ども沖縄県民は、皆さまのご意志を決して無にすることなく、これを沖縄県の再建に生かし、そして、世界の恒久平和の達成に一段と努力することを誓うものであります。
さて、沖縄の復帰の日は、疑いもなくここに到来しました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません。
しかし、沖縄県民にとって、復帰は強い願望であり、正しい要求でありました。また、復帰とは、沖縄県民にとってみずからの運命を開拓し、歴史を創造する世紀の大事業でもあります。
その意味におきまして、私ども自体が先ず自主主体性を堅持してこれらの問題の解決に対処し、一方においては、沖縄がその歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除して県民福祉の確立を至上の目的とし、平和で、いまより豊かでより安定した、希望のもてる新しい県づくりに全力をあげる決意であります。
しかしながら、沖縄に内包する問題はなお複雑なものがあります。幸い、私ども沖縄県民は名実とも日本国民としての地位を回復いたしましたし、政府ならびに全国民の皆さまにおかれては、沖縄問題を新しい立場から共通の課題として止揚していただき、その完全・全面的解決のためこれまで以上のご関心とご協力を賜わりますよう念願するものであります。
沖縄は、長く、苦しかった試練を乗り越え、いまここにその夜明けを迎えました。復帰は、まさしく沖縄という新しい生命の誕生でありますし、私ども県民は、これまでの基地の島という暗いイメージを払拭し、新たな自覚にたって県民自治を基調とする「平和で、明るい、豊かな県づくり」に邁進するとともに、文化豊かな社会の建設に真剣に取り組み、国家繁栄のために貢献する決意であります。
沖縄の戦後はまさに茨の道でありましたが、県民の体験はまた貴重なものであります。私どもは、きのうのきょうではなく、歴史上銘記さるべきこの日を転機としてとり残されてきた歴史に終止符を打ち、体験を生かし、国民の皆様のご協力も得て復帰の意義と価値を高め、その正しい位置づけに十分努力するつもりであります。
本日の式典にさいし、私どものためにいろいろと、おはげましを賜わりました皆さまのご好意に対し厚くお礼を申しあげ、皆さまと国のこの上ないご繁栄を祈念してごあいさつといたします。
昭和47年5月15日 沖縄県知事 屋良朝苗
「しかし」という逆接の接続詞が何度も登場する点に注目してみるのもよいかもしれません。
佐藤栄作首相のあいさつの全文は、(記録文書では残っていると思うのですが)ネット上では見つけられませんでした。
一部は以下のサイトで確認できます。
NHK for School「佐藤栄作」
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310460_00000
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