【書籍】上間陽子(2017)『裸足で逃げる:沖縄の夜の街の少女たち』

書誌情報

上間 陽子 
裸足で逃げる―沖縄の夜の街の少女たち―
太田出版,2017年

厳密な社会調査に基づいて書かれた、エッセイのような本。
その凄まじい落差が心に刺さります。

本書の概要

内容について

本書は、琉球大学で教鞭をとっておられる上間陽子先生の初の単著です。

優歌、美羽と翼、鈴乃、亜矢、京香、春菜。
そして早苗と加奈。

キャバ嬢や援助交際をしている少女たちから聞き取った声や、基地の街に暮らしていたかつての少女たちの記憶が綴られています。
自分たちの力だけでは逃れようのない暴力の連鎖の中で、それでもなんとか生き延びようとする彼女たちの厳しい日常が、柔らかな文体で語られています。

これは、私の街の女の子たちが、家族や恋人や知らない男たちから暴力を受けながら育ち、そこからひとりで逃げて、自分の居場所をつくりあげていくまでの物語だ。

p.19

筆者について

琉球大学教育学研究科教授。ご専門は教育社会学、生活指導。
家庭環境や生活環境の厳しい沖縄の若い世代について、調査・研究、および支援を続けておられます。
2021年10月、沖縄にオープンした若年ママの出産・子育ての応援シェルター「おにわ」の共同代表。

本書のポイント

貧困と暴力の連鎖

本書に登場する女の子たちが受けてきた暴力の背景には「貧困」という問題が見え隠れします。

経済的に貧しいことが、必ずしも家庭環境の貧しさに直結するとは限りませんが、多くの場合、それは大なり小なりリンクしており、そのような家庭の中でネグレクトやDVといった暴力が生まれます。
その暴力から逃れるために、若年結婚・出産・離婚を経て、あるいは未婚の母としてシングルマザーとなった女の子たちは、再び貧困と暴力に巻き込まれていきます。

こうして貧困と暴力の連鎖が続いていきます。

特に、暴力を受けて傷ついた自分の存在を確かめるために、さらなる暴力に身を晒す女の子たちの語りには、そのことを象徴しているように思います。

そして沖縄の「貧困」問題には、沖縄戦で壊滅的な被害を受け、土地を奪われ、日本本土が戦後復興から高度経済成長を遂げた時期には、軍隊という暴力と隣り合わせる米軍の占領下にあり、社会福祉制度の導入も本土とは時間的なギャップがあったことが、今も重く響いていることを忘れてはならないでしょう。
連鎖という現象に注目する以上、その始まりを考えるうえでも歴史の検証は避けて通れないからです。

「シマ」の特異性

例えば、本州に住む人々は、公共交通機関等を使い、陸路で簡単に県境を越えられます。
地元で辛いこと・イヤなことがあっても、そこから脱出し、自分のことを誰も知らない遠いところで、新しい生活を始めることも比較的ハードルが低いと言えるでしょう(実際、東京や大阪などの大都会にはそういうひとたちが多く集まってきます)。

人の移動が多ければ、他の地域のさまざまな情報も手に入れやすいというメリットもあります。地元を離れた知人・友人が多ければ、その人たちを頼りにすることもできるかもしれません。

しかし沖縄は「島(シマ)」です。
逃げたくても、逃げようがないのです。

また沖縄は、共同体意識が強い分、いわゆる「ムラ社会」的な様相も帯びやすい地域です。
噂が走るのも早い。
ひとたび悪いレッテルが貼られると、それがいつまでも本人を縛りつづけます。コミュニティからも排除されていきます。しかし、そこから逃れることができないのです。

加えて、沖縄では「しーじゃー・うっとう」という関係性ががあると、著者は説明しています。少女たちが暴力を受けても、そこから逃れることが難しいのは、こうした地域特有の事情も関係しています。

沖縄の非行少年たちには、先輩を絶対とみなす「しーじゃー・うっとう(=先輩と後輩)」関係の文化がある。そのため、先輩から金銭を奪われ、ひどい暴行を受けても、後輩の多くはそれを大人に訴えることをしない。そして学年が代わり自分が先輩になった子たちは、今度は自分たちより下の後輩たちに暴力をふるう。

p.77

※ちなみに、著者と共同研究を行い、本書にもしばしば登場する社会学者の打越正行氏は、この「しーじゃー・うっとう」関係が「沖縄の文化に由来するものではないことが分かってきた」と述べています。

沖縄の暴走族、ヤンキーの若者、そしてその多くが就く建築業では、先輩と後輩の強い関係が存在する。
そしてこれは、沖縄の文化に由来するものではないということがわかってきた。

沖縄の建築業が内地のゼネコンに収益を吸い上げられる過程で、それでも生き残るためにできあがったものである。

打越正行(2017)「沖縄で「暴走族のパシリ」になる 調べる社会と調べ方の出会い」(現代ビジネス)

注目したい引用

 私たちは生まれたときから、身体を清潔にされ、なでられ、いたわれることで成長する。だから身体は、そのひとの存在が祝福された記憶をとどめている。その身体が、おさえつけられ、なぐられ、懇願しても泣き叫んでもそれがやまぬ状況、それが、暴力が行使されるときだ。そのため暴力を受けるということは、そのひとが自分を大切に思う気持ちを徹底的に破壊してしまう。

p.6

暴力が常態化するなかに育つ子どもたちは、成長すると自分の恋人や家族に対しても、暴力をふるうことを当然だと思うようになる。なぐられるほうもまた、大切にされているから自分は暴力をふるわれていると思い込もうとし、逃げることが遅れてしまう。

pp.77-78

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