黒の屍体と赤の屍体@香月泰男展

シベリヤ・シリーズ:作品・モチーフ

※香月本人の解説文は、図録『生誕110年 香月泰男展』からの引用

「1945」(1959)

山口県立美術館蔵

敗戦の時点で満州に残っていた日本人が、ソ連兵や現地の中国人たちの憎しみに直接的に晒された、という話は、満州に送られた日本兵だけではなく、満蒙開拓団の記録の中にも見られます。

この絵は、線路脇に放り出されていた日本兵を描いたもの。香月が貨車から目撃した光景です。おそらく現地の人の私刑で殺されたのだろう、とのこと。解説文の描写の凄まじさには息をのみます。

衣服をはぎとられ、生皮をはがれたのか、異様な褐色の肌に、人間の筋肉を示す赤い筋が全身に走って、教科書の解剖図の人体そのままの姿だった。(香月泰男)

香月は、この姿を「赤茶色の屍体」、原爆で一瞬にして炭化した姿を「真黒こげの屍体」として、次のように続けました。

帰国後、写真で見た広島の原爆の、真黒こげの屍体と、満州で貨車から瞬間見た赤茶色の屍体。二つの屍体が、1945年を語り尽くしていると思う。(香月泰男)

ということは、奥に描かれた黒いものは、原爆で亡くなった人を表しているのでしょうか。

黒い屍体と赤い屍体。
作品に添えられた、おそらく学芸員さんの手による解説では、この十五年戦争の被害と加害を表すものとして紹介されていました。

ただ、黒い屍体=被害で、赤い屍体=加害というような、分かりやすいメタファーに落とし込んで解釈することには、少々違和感を覚えました。
なぜなら、この赤い屍体は、加害の象徴というよりは、戦争の加害と被害の両方を抱え込む存在だからです。

それにしても「赤茶色の屍体」と説明しながら、作品では赤茶色で描かなかったのはなぜなのか。
いろんな意味で、個人的には最も印象に残った作品でした。

「朕」(1970)

山口県立美術館蔵

香月曰く、「軍人勅諭なるものへの私憤」を描いた作品。
その解説文の最後の一文が特に印象に残りました。

我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給ウ所ニソアル……朕ハ大元帥ナルソ、サレハ朕ハ……朕ヲ……朕……

朕の名のため、数多くの人間が命を失った。(香月泰男)

「埋葬」(1948)

山口県立美術館蔵

他の「シベリヤ・シリーズ」よりも、ずっと早くに描かれた作品。

時期的には、日本に戻って来て、それほど時間を置かずに描かれたことになります。このあと香月は、1956年まで「シベリヤ・シリーズ」を描きませんでした。

「シベリヤ・シリーズ」は、黄土色と黒を基調としていますが、この作品は暖色で描かれています。その理由を綴った香月の解説が胸を打ちます。「冷たい」と「あたたかい」の対比が、香月の深い追悼の念を表しているように思います。

私は異郷の冷たい土の下に葬られる戦友を、ことさらあたたかい色で描いた。(香月泰男)

「日本海」(1972)

山口県立美術館蔵

ナホトカの丘。奥の鮮やかなブルーの海は日本海。

目の前の海を越えれば故郷、という場所に埋葬されていた日本人は、もともと靴を履いた足だけが地上に出ていたそうです。
おそらく日本への帰還目前に力尽きたのでしょう。

死者の無念さへの共感をこめて、顔と手を描き加えた。(香月泰男)

鉄条網

《荊》1965年、山口県立美術館蔵

「シベリヤ・シリーズ」には、鉄条網が書き加えられている作品がいくつかあります。左の作品は、特に有刺鉄線の棘の部分にフォーカスを当てて書かれています。

《星〈有刺鉄線〉夏》という作品では、キャンバスの上半分は満点の星空、下半分は有刺鉄線が描かれていました。
日本にいる家族も見ているであろう星空と、その家族と自分を分かち、隔てる存在としての有刺鉄線、という構図に、囚われの身である抑留者の立ち位置を見る思いがしました。

死者の顔

先に挙げた《朕》もそうですが、香月が描く人(または死者)の顔は、ゴツゴツと角ばっていて、どこかモアイ像を思い起こさせるような感じです。

香月は、死者が出ると、その顔をスケッチしていたそうです。
それらの絵はソ連兵に見つかり、没収されてしまいましたが、香月は以下のように説明しています。

《涅槃》1960年、山口県立美術館蔵

スケッチはなくなったが、私は死者の顔を忘れない。どの顔も美しかった。肉が落ち、目がくぼみ、頬骨だけが突き出た死者の顔は、何か中世絵画のキリストの、デスマスクを思わせるものがあった。彼等の一人一人は私の中に生きていて、私の絵の中によみがえる。(香月泰男)

「渚〈ナホトカ〉」(1974)

山口県立美術館蔵

香月の最後の作品。
本展覧会のポスターでも使用されています。

黒い部分には、よく見ると、例のデスマスク調の顔が無数に描かれています。

ナホトカは、日本に戻る船が出る港。
香月も、1947年5月にここに到着し、舞鶴行きの引揚船に乗り込みました。

私達は一晩砂浜で寝た。その時の情景を描いた積りだが、何だか日本の土を踏むことなくシベリヤの土になった人達の顔、顔を描いているような気がしてならぬ。
20数年経った今の、単なる私の感傷であろうか。(香月泰男)

砂浜で一夜を明かす自分たちを描くつもりが、死者の顔を描いてしまっていた。
しかも当時からそのように思っていたわけではなく、香月にとって、これが「20数年経った今」にならなければ描けなかった心象風景だったのでしょう。

香月は心筋梗塞で急逝したため、本人としては、これを最後の作品にしようと考えていたわけではなかったとは思いますが、図らずもこれが絶筆となりました。

香月の人生において、シベリアでの抑留生活と、シベリアで亡くなった仲間たちの存在が、最後まで大きな影を落としていたことが想像されます。

その他「シベリヤ・シリーズ」以外の感想は、以下のページで。

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