「ないちゃー」という呼称にこだわる理由

沖縄県外出身者の私は、自分のことを「やまとんちゅ」ではなく「ないちゃー」と呼ぶことにこだわっています。

「やまとんちゅ」と「ないちゃー」、何が違うのか?
その前に、沖縄のことばを確認しておきましょう。

うちなー:沖縄
大和(やまと):本土
うちなーんちゅ:沖縄出身者
やまとんちゅ:本土出身者

このルールに従えば、私は「やまとんちゅ」になります。

本土が「内地」なら、沖縄は「外地」なのか?という理由から、本土と沖縄の対等な関係性にこだわる方は、「やまとんちゅ」という呼び方にこだわります。

それから「沖縄は日本の一部ではない」という立場の方の中にも、日本と沖縄の対等な関係性を意識して「やまとんちゅ」という表現を好む方がいます。

では「ないちゃー」とは何か?

「ないちゃー」とは、「内地の人」という意味の、ある種のスラングです。
例えば、県外出身者で、沖縄に移住した人のことを「島(しま)ないちゃー」と呼んだりもします。
ちなみに沖縄で「島」(多くの場合「シマ」とカタカナで書かれる)というときは、文字通りislandの意味もありますが、「集落」や「村」という意味であることも多いです。

「ないちゃー」は差別用語である、という方もいれば、いやいや最近ではその差別的な意味合いも薄れていて、単にフラットな意味で「内地の人」と呼んでいるだけだよ、と主張する方もいます。
ただしこの場合は、どちらも県外出身者の主張であることがほとんどです。いずれにせよ、自分が「差別されている」ということを認めたくないという気持ちの表れかな、と個人的には思っています。

そもそも日本人が沖縄の人たちをあからさまに差別してきた歴史があるんですけどね…。

子どものころ、具体的には1984年の夏から1987年の末まで、沖縄に住んでいました。
そのとき初めて「ないちゃー」と呼ばれたことで、この表現を知りました。
今ほど本土出身者が沖縄に住んでいなかった時代です。
私は日本国内を移動しただけだと思っていたのに、沖縄ではどうやら「よそ者」と見られるらしい、ということにまず驚きました。

当時、「うちなーんちゅ」ではない者という意味に加え、誰に「ないちゃー」と呼ばれるかで、そのニュアンスは違っていました。
沖縄戦体験者であれば、友軍の記憶につながるものとして。
私と同世代であれば、都会的なものへの羨望を含むものとして。

私を名指す「ないちゃー」という呼び名には、単に「差別する/される」という言葉では表現できない、日本本土に対する沖縄の人々の複雑な感情が入り混じっていました。

そして現在。
人々の意識という点では、「差別する/される」という感覚はだいぶ小さくなってきたように思います。
しかし「見えない差別」、つまり沖縄を「外地」扱いする構造的差別は続いています。
好むと好まざると、私はこの構造において「内地の人」という立場にあります。

それらすべてを引き受けるものとして、私は自分自身を「ないちゃー」と呼ぶことにこだわっています。

※当然のことながら、このこだわりは私自身の来歴に拠るものであって、県外出身者はすべからく「ないちゃー」と自称すべきだと思っているわけでは決してありません。

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