戦争体験者は「教材」か?

例えば教員が沖縄戦学習を行うために、戦争体験者の証言を使って教材をつくろうというとき。
「この証言は使える」とか「あの体験者の話は使えない」といった発言が飛び交うことが少なくない。

私はこうした表現に強い違和感がある。

それを意識するようになったきっかけがある。
ひめゆり平和祈念資料館のホールで、まだ体験者講話が行われていたろ、修学旅行を引率していた先生が、今回の体験者さんの話はイマイチだった、去年の人のほうがよかった、と言うのを耳にした。平和教育に熱心な先生だった。

確かに、生徒さんにはちょっと分かりにくかったかもしれない、とは思った。
たぶん講話内容の組み立て方があまり体系的ではなかったからだと思う。
冒頭で場を和ませたりとかつかみを入れたりとか、といったこともなく、いきなり話し始めたことも関係していると思う。

でも戦争体験者は、学習者が沖縄戦学習をより効果的・効率的に行うために存在しているわけではない。
教員が生徒に教えたいことを代わりに伝える代弁者でもない。

「この証言は使える」というとき、たいていの場合、あらかじめ教員の側に「教えるべき内容」が決まっていて、その枠にあてはまる証言であれば「使える」と判定される。教員側の都合で、証言の「使える/使えない」が決定される。語られる内容だけが重要で、それを誰がどんな思いでどのように語るのかについては、関心を持とうとしない。

なかには、体験者の語りに深く耳を傾けていく中で、「これは子どもたちにも共有したい」という思いから、その語りをもとに教材をつくる先生もいる。
ただしそういう先生は、利便性で体験者の証言や語りを判定したりはしない。自分が出会った語りを教材化したのであって、自分の作りたい教材にハマる語りを探しにいったわけではないからだ。だから、その語りの内容や対象学年などによって「教材化するのは難しい」と言うことはあっても、「この話は使えない」とは言わない。

教員の利便性で証言や語りを判定することの問題は、体験者の声を「モノ」化することだけではない。
その声を自分の価値観に当てはまるように曲解して取り込んでしまう危険性もはらんでいる。

学習者にとって話の内容が分かりにくかったのなら、あとでフォローすればよい。
彼らの思考や認知の特性に合わせたフォローは、彼らと毎日接し、彼らを良く知る教員だからこそできることだ。
あるいはなぜそのような「分かりにくさ」が生じたのかを、学習者と一緒に探究してみるのが教員の役割ではないのか。

もちろん現実問題として、教材にしやすい証言とそうでないものはある。
ただそれは、その証言を「使う」か「使わない」かという選択の結果であって、「使える」か「使えない」かといった判定の結果ではない。

なお、日本語のややこしいところだが、ここで言っている「使える/使えない」は優劣のことであって、可能性のことではない。
主語を考えてみれば分かるだろう。
「この証言は使えない」と「私はこの証言を使えない(=使うことができない)」では全然意味が違う。
ここで問題視しているのは、もちろん前者のような価値判断である。

私は「使えない証言/語り」など、この世に存在しないと思っている。
どんな語りにも、その語り手の人生が詰まっている。
その語りを「使えない」ものにしているのは、語り手の問題ではなく、それを受け取る側の問題である。

戦争体験者は、平和学習のための「便利な材料/道具」ではない。

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